カラヤンの「ばらの騎士」を聴く(3)

1956年録音の「ばらの騎士」の名演は、もちろんCD化されていて、多くの人々の称賛を受け、今もなおこのオペラのすべてのCDの中でも、最も優れたものとする人も数多い。
さて、このCDにはモノラルヴァージョンもリリースされている。
今回は、その意味について考えてみよう。

この録音は「ステレオ録音」として知られている。
しかし同時に、オリジナルの完成形はモノラルであったという事実は、
意外なほど知られていない。

1956年――
ステレオはすでに存在していたが、それはまだ「主役」ではなかった。
当時のEMI(コロンビア)において、
・モノラル=商品としての完成形
・ステレオ=将来を見据えた実験的記録
という意識は、なお明確に存在していた。

とりわけオペラ録音においては、
言葉の明瞭さ、声とオーケストラの均衡、
舞台上の心理的距離感が最優先される。
これらを最も確実に制御できたのが、一点集中のモノラル録音だった。

この「ばらの騎士」でも事情は同じである。
歌手の配置、マイクバランス、フレーズの収まり――
すべては「モノラルでどう聴こえるか」を基準に設計されている。

とりわけ印象的なのは、元帥夫人を歌う
エリーザベト・シュヴァルツコップの存在だ。
彼女の声は、単に美しいだけではない。
言葉の一音一音に知性と感情の重心が置かれ、
その陰影が、モノラルでは驚くほど自然に浮かび上がる。

ステレオで聴くと、声は空間の中に配置される。
一方モノラルでは、声は「空間」ではなく
時間の流れの中に置かれる
元帥夫人の独白は、左右に広がるのではなく、
聴き手の正面で、静かに時間を刻む。

この感覚は、まさに舞台的である。

重唱や三重唱においても同様だ。
声部が横に分離されるのではなく、
一つの音楽的身体として呼吸する。
その結果、ドラマの集中度は極めて高い。

CD時代になってから、
この録音がモノラルでも復刻された理由は、ここにある。
それは「資料的価値」ではなく、
音楽としての完成度が、モノラルにおいて非常に高かったからだ。

モノラルヴァージョンの「ばらの騎士」

モノラルの「ばらの騎士」
(「STEREO」の金色のステッカーがない)

ステレオヴァージョンの「ばらの騎士」

ステレオの「ばらの騎士」
(右上に「STEREO」のステッカーあり)

実際、初出当時に世に出たのはモノラルLPであり、
多くの聴き手がこの演奏を
「この音」で体験していた。
ステレオ版は後年、音場的な魅力を付加したものであって、
演奏の核そのものは、モノラルですでに完結している。
(「疑似ステレオ」という意味ではない)

若き日のカラヤンもまた、
後年のような音響的彫刻より、
フレーズの流れ、言葉の運動、
オーケストラを“歌わせる”呼吸を重視していた。

この1956年「ばらの騎士」は、
カラヤンがオペラ指揮者として最も純粋だった瞬間を捉えている。
そしてその純度は、
モノラルという形式と、驚くほど深く結びついている。

いま、あらためてこのモノラルLPを聴くとき、
私たちは「古い音」を聴いているのではない。
むしろ、
この演奏が最初に到達した完成形に立ち会っているのだ。

ステレオが空間を与えるなら、
モノラルは時間を与える。
この「ばらの騎士」において、
モノラルは制約ではなく、
ドラマを最も高密度に結晶させた形式なのである。


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