ギーゼキングから、リパッティへ――再びパルティータ第1番

ここ最近、ヴァルター・ギーゼキングのバッハをあれこれ聴き返していた。
パルティータを中心に聴いているうちに、彼の演奏は決して個性を誇示するものではなく、さらりと楽譜に忠実でありながら、次第にその奥から人間的な温かさが立ち上がってくることに気づかされる。
無理をせず、音楽を自然な位置に置く。その姿勢に耳を委ねていると、ふと、ある演奏が脳裏に浮かんできた。

ディヌ・リパッティのバッハ、パルティータ第1番である。

リパッティのバッハ・スカルラッティほかの作品集

このLPを最初に手に取った理由は、実のところ別にあった。
いまから、もう50年くらい前のことである。
同じ盤に収められていた「主よ、人の望みの喜びよ」――あの静謐なコラールを聴きたくて買った一枚だった。(たぶん、ピアノの先生の家で聴かせて頂き、気に入って欲しくなった。)
祈りのように端正で、感情を煽らないその演奏は、いかにもリパッティらしい「音楽の倫理」を体現していた。

だが、幼い頃の私の耳をより強くとらえたのは、むしろ同じ盤に収められていたパルティータ第1番だった。
軽妙で、明るく、舞曲としての運動感がはっきりしている。
意味や構造を理解しなくても、音楽そのものが身体にすっと入ってくる。
学生時代、このパルティータだけを続けて二回聴いたことがある。
一度では足りず、もう一度その「姿勢の良さ」の中に身を置きたくなったのだろう。

あらためて聴き返すと、リパッティの演奏は決して穏健一辺倒ではない。
テンポは比較的速く、他の演奏――たとえばシフなどと比べると、ややハードに感じられる瞬間もある。
しかし、そこに力みはない。
音楽は無理をしておらず、のびのびとしている。
それでいて輪郭はきりっと引き締まり、全体が颯爽としている。

この不思議な均衡を一言で言えば、「正しい姿勢」だろう。
速くても崩れない。
引き締まっていても攻撃的にならない。
結果として、独特の品の良さが自然に立ち上がる。
それは作られた優雅さではなく、音楽が本来あるべき位置に置かれていることから生まれる品位である。

ギーゼキングを聴き、リパッティを思い出し、
そのパルティータ第1番を聴き直して、
はるか昔の記憶がよみがえり、
そして今あらためて、リパッティに深く感動する。

音楽は、こうして時間を越えてつながっていく。
この一枚は、私にとってそのことを静かに、しかし確かに教えてくれるLPである。
幸せなひとときをありがとう!

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