ケルテスのシューベルト

――ストレスフリー、だが軽薄ではない音楽

シューベルトの交響曲全集は数多く録音されている、気負わずに聴き始め、最後まで自然に耳を傾けられる全集となると、意外なほど数は限られてくる。
今回あらためて聴き直した、イシュトヴァン・ケルテス指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるシューベルト交響曲全集は、その意味で今なお揺るぎない価値を持つ存在だと感じた。

シューベルト/交響曲全集(英プレス)

私にとって、この全集の最大の魅力は、
ストレスフリーでありながら、決して軽薄に傾かないということだ。
解釈を誇示することなく、音楽をあるがままに提示する。
しかしそれは「何もしない」演奏ではない。
むしろ、きわめて高い集中力と節度によって、初めて成り立つ音楽である。

ケルテスのシューベルトは、テンポ設定が自然で、呼吸が大きい。感情を煽ることも、構造を誇張することもほとんどないが、音楽は常に前へ進んでいく。停滞せず、急ぎすぎず、流れが途切れない。そのため、聴き手は構える必要がなく、音楽の時間そのものに身を委ねることができる。
「指揮者の解釈を聴かされている」という感覚が、ほとんど生じないのである。

この全集の性格を決定づけているのは、やはりウィーン・フィルの存在だろう。
弦は柔らかく、無理に揃え込まれることなく自然に歌う。管楽器は自己主張を誇ることなく、音楽の流れの中に溶け込む。拍で音楽を刻むのではなく、呼吸によってフレーズが生まれてくる――この独特の合奏力が、ケルテスの抑制された指揮と見事に噛み合っている。

シューベルト/交響曲全集(独プレス)

初期交響曲(第1番〜第3番)では、若書きとして軽く扱われがちな作品が、きちんと「交響曲」として立ち上がってくる。
軽快で親しみやすいが、決して雑ではない。明るいが、薄味にはならない。ケルテスは、これらの作品を必要以上に重くもせず、また軽視することもない。その距離感が、実に心地よい。

第4番「悲劇的」においても、タイトルに引きずられることはない。悲しみや翳りはあるが、それを強調することなく、音楽の構造の中から自然に滲み出させる。感情表現に寄りかからず、作品そのものに語らせる姿勢が一貫している。

第5番、第6番では、いわゆる「軽さの質」が問われるが、ここでもケルテスは見事である。音楽は透明で流麗だが、決して軽薄にならない。ウィーン・フィルの柔らかな音色と、指揮者の節度あるコントロールが、この絶妙なバランスを可能にしている。

「未完成」では、感傷に溺れることがない。旋律はよく歌うが、粘らず、引き延ばさない。音楽は静かに、しかし確実に前進する。ここでも「ストレスフリー」という言葉が、きわめて的確に当てはまる。

そして第9番《グレート》。この長大な作品を、これほど自然な推進力でまとめた演奏は多くない。走らず、だれず、止まらない。構造は明快で、終楽章に至るまで集中力が持続する。
「長いが、長く感じない」――この一点だけでも、この演奏の価値は十分に伝わるだろう。

録音は1960年代のDECCAの充実したステレオ期に行われた。
ゾフィーエンザールの音響とVPOの演奏が自然に溶け合い、演奏と録音が良い意味で一体化している点も、繰り返し手に取れる理由のひとつである。

43歳という若さで世を去ったケルテス。もし長命であったなら、彼のシューベルトはさらに深化していたかもしれない。しかし少なくとも、この全集は、
「日常の中で、無理なく寄り添ってくるシューベルト」
「何度聴いても疲れないシューベルト」
として、今も確かな位置を占めている。

派手さはない。だが、誠実で、強い。
ストレスフリーでありながら、決して軽薄ではない。
ケルテスのシューベルトとは、そういう音楽なのだと思う。

イシュトヴァン・ケルテスのLPはこちらから

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