モーツァルト「皇帝ティートの慈悲」

――「音楽を信ずる」指揮者、ケルテスのオペラ

モーツァルト晩年のオペラ、「皇帝ティートの慈悲」は、しばしば「堅い」「地味」「祝典的」といった言葉で語られてきた。形式はオペラ・セリア、筋書きもきわめて道徳的で、劇的な衝突や過激な感情表現が前面に出る作品ではない。そのため、このオペラの真価は、解釈や演出の方向性によって大きく印象が変わる。

イシュトヴァン・ケルテス指揮によるこのLPを全曲聴き終えて、強く感じたのは、彼がこの作品を「オペラ」としてではなく、あくまでも「音楽」としてとらえているという点である。
ケルテスは、劇的効果や舞台的な誇張によって感情を作ろうとはしない。テンポやダイナミクスで心理を説明することもない。その代わりに、音楽そのものの流れ、旋律の美しさ、和声の移ろいを、きわめて誠実に提示していく。

モーツァルト/「皇帝ティートの慈悲」(ケルテス)

彼にとって、オペラも交響曲も本質的には同じ「音楽」なのだろう。だからこの「皇帝ティート」には、オペラ特有の「芝居がかった」感じがほとんどない。音楽は常に自然な呼吸で進み、無理に劇的な山場を作ることなく、全曲が一つの大きな流れとしてまとめられている。その結果、聴き手は感情を煽られることなく、静かに、しかし深く作品と向き合うことになる。

この姿勢は、ケルテスがシューベルトやドヴォルザークの交響曲で示してきた態度と、まったく同じである。聴いていてふと思い出したのは、小澤征爾のスタンスである。
スタイルや音色の方向性こそ異なるが、両者には「音楽を信ずる」という一点において、明確な共通項がある。小澤もまた、オペラをオペラとして誇張するのではなく、音楽そのものの流れと美しさに委ねる指揮者だった。
劇的効果を外側から付け加えるのではなく、音楽が自然に語り出すのを待つ。その姿勢は、このケルテスの「皇帝ティート」にもはっきりと感じ取ることができる。音楽を信じ、音楽に語らせる。指揮者の役割は、意味を付け加えることではなく、音楽が本来持っている力を妨げずに解き放つことだ、という確信が感じられる。

オーケストラはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。その柔らかな弦の歌い回しと、気品ある管楽器の響きは、この作品に過度な劇性を与えることなく、むしろ人間的な温かさと均衡をもたらしている。拍で刻まれる音楽ではなく、呼吸によって生まれるフレーズ。その合奏感が、ケルテスの音楽観と見事に一致している。

この演奏から受ける印象は、「感動した」というよりも「納得した」という言葉のほうが近いかもしれない。終盤に描かれる赦しの場面も、感情的に盛り上げられることはなく、静かな必然として訪れる。その静けさこそが、このオペラの本質であり、モーツァルトが描こうとした人間像なのだと、あらためて気づかされる。

派手さはない。しかし冷たくもない。
劇性よりも音楽美が前に出るが、決して無味乾燥ではない。
それは、音楽そのものを信じている指揮者にしか成し得ないバランスである。

「皇帝ティートの慈悲」という作品を、思想や演出ではなく、純粋に音楽として味わいたい。そんな聴き手にとって、このケルテス盤は、今なお大きな価値を持つLPだと思う。

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