1番だけのズスケのバッハ/無伴奏

カール・ズスケ

――1番だけ残されたバッハ《無伴奏》のLPを聴いて

正直に言えば、最初の印象は「地味」だった。
音色がきらきらしているわけでもなく、
一音目から耳を捉えに来るような華やかさもない。
近年の無伴奏バッハにしばしば感じる、
「これは自分のバッハだ」と語りかけてくるような自己主張も、
ズスケの演奏にはほとんど見当たらない。

けれど、不思議なことに、
しばらく聴いていると、耳が離れられなくなるのがわかる。
派手ではないのに、
なぜか「ほっとけない」。
そんな感覚が、静かに残る。

バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(1番のみ)
カール・ズスケ(ヴァイオリン)

このバッハの無伴奏は、
ズスケのキャリアの比較的晩年に録音されたものだ。(1983年)
時代的にはすでにデジタル録音が主流となった頃である。
しかし、ここで聴かれる音楽は、
そうした技術的進歩とは、ほとんど無縁に感じられる。
音はちょっと硬質で細く、ヴィブラートは最小限。
音色で惹きつけようとする意志も、
演奏で何かを誇示しようとする気配もない。
そこにあるのは、
ただ音符を、過不足なく置いていくスタイルだけだ。

あるヴァイオリニストが言っていた言葉を思い出す。
「無伴奏は、特に奏者の技量よりも“人間性”が出てしまう」。
無伴奏には、逃げ場がないのだ。
伴奏も、和声も、音楽の流れを委ねる相手もいない。
音程、リズム、間、構造、沈黙――
すべてを一人で引き受けなければならない。

ズスケの無伴奏から感じるのは、
誇らないこと、
押し出さないこと、
飾らないこと。
音で語ろうとせず、
感情を盛ろうとせず、
ただ音楽の前に、静かに立っている人間の姿だ。

結果としてそこに現れるのは、
巨大な宇宙ではなく、
かちっと完結した「小さな宇宙」である。
少し奇妙な喩えかもしれないが、
それは盆栽を見る感覚に近い。
決して大きくはない。
一瞬で価値が分かるものでもない。
けれど、枝の角度、幹の流れ、空白の取り方、
そのすべてに意味があり、
同時に自然でもある。

興味深いのは、
この無伴奏バッハがLPではなぜか第1番しか存在しない
という点だ。
CDやデジタルでは全曲が揃っているにもかかわらず、
アナログ盤では、第1番のみが残された。
(ただしその後に彼はのこった2・3番も録音し、CD化されている)

だが、実際に聴いてみると、
それは不思議と不自然には感じられない。
むしろ、この演奏に限って言えば、
第1番だけで、すでに完結していると感じられる。
前奏曲の低音の歩み、
舞曲楽章の呼吸、
終止の置き方――
すべてが、過不足なく閉じていく。

派手な名盤ではない。
語りたくなる名盤でもない。
しかし、棚に戻しても、
また必ず手に取ってしまう。
ズスケの晩年のバッハ無伴奏は、
そういう種類の音楽だ。

音楽を聴く、というより、
一人の人間と、静かに同じ時間を過ごす。
デジタル時代に、
あえてこのような演奏を残したズスケの姿勢そのものが、
このLPの最大の価値なのかもしれない。


バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(1番のみ)
カール・ズスケ(ヴァイオリン)
1983年・ドレスデンルカ教会にて録音

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