デイヴィスを聴く(ハイドン編)

なぜ、ハイドンなのだろうか。
コリン・デイヴィスのハイドンを聴きながら、ふと昔聞いた言葉を思い出した。

デイヴィスのハイドン/「ロンドン交響曲集」

小澤征爾さんがかつて、
「暗譜するのに、いちばん難しい作曲家はハイドンだ」
と語っていたという話である。

その理由は意外なものだった。
ハイドンのスコアは、あまりに単純だからだという。形式は明快で、和声も整理され、見た目には複雑さがない。

ところが、その“単純さ”ゆえに、記憶の手がかりが少なく、暗記するのが極めて難しい。余計な情報がないからこそ、音楽そのものを深く理解していなければ、頭に残らないのだという。

このエピソードは、ハイドンという作曲家の本質を、実に鋭く突いていると思う。

ハイドンの交響曲は、外面的な効果に乏しい。強烈な対比や、感情を露骨に煽る場面は少なく、音楽は端正に、しかし淡々と進んでいく。だからこそ、指揮者が何かを「足そう」とすると、すぐに不自然さが露呈する。一方で、何もしなければ音楽は痩せ、ただの音の羅列になってしまう。

つまりハイドンは、指揮者の音楽観や節度、誠実さが、そのまま透けて見える作曲家なのではないだろうか。

その意味で、ハイドンの交響曲は、指揮者の個性が最もはっきりと表れるレパートリーの一つだと感じる。派手な身振りも、解釈上の色付けも許されない場所で、何を選び、何をしないか。その判断の積み重ねが、演奏の質を決定する。

コリン・デイヴィスのハイドンを聴いて、まず感じるのは響きの美しさだ。オーケストラ全体がよくブレンドされ、ホールトーンがたいへんきれいに整っている。響きは豊かだが濁らず、古典派の音楽として理想的な透明感が保たれている。

デイヴィスのハイドン/「ロンドン」と「軍隊」

興味深いのは、これだけ音がよく溶け合っていながら、各楽器の分離がきわめて良い点である。内声は埋もれず、木管の動きや弦の対話が自然に耳に入ってくる。音が一つの塊として鳴っているのではなく、秩序だった集合体として響いている感覚がある。

テンポ設定はいずれの曲でもきわめて適正だ。急ぐことも、引き延ばすこともなく、音楽は自然な呼吸で進んでいく。メロディーの表情づけにも節度があり、感情を誇張することはない。それでいて決して冷たくはならず、人間的な温度が保たれている。

このハイドンは、非常に聴き飽きない。一度の強烈な印象で聴き手を驚かせるタイプの演奏ではないが、繰り返し聴くほどに、構造の美しさや内声の動きが静かに浮かび上がってくる。

「模範的」でありながら「機械的」ではない。
よくブレンドされ、しかも分離が良い――この一見矛盾した要素を両立させている点に、デイヴィスという指揮者の本質があるように思う。

デイヴィスのハイドン/交響曲第88番「V字」と99番

ハイドンが「単純すぎて難しい」作曲家だとすれば、この演奏は、その単純さの奥行きを真正面から引き受けたものだ。
だからこそ、いま聴いても新鮮で、静かな説得力を失わないのだろう。

デイヴィスのハイドン/交響曲第86番と98番

デイヴィスのハイドン/交響曲第101番「時計」と102番

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