なぜ、いまカラヤンのハイドンなのか

——試聴レポート・序章——

ヘルベルト・フォン・カラヤンのディスコグラフィをあらためて見渡すと、ひとつの発見に行き当たる。
それは、ハイドンの交響曲
の扱いである。

ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルト。
これらの作曲家について、カラヤンは生涯にわたって実演と録音を重ね、そのたびに自らの音楽観を更新してきた。再録音は、単なる技術的刷新ではなく、「いまの自分ならこう語る」という明確な意思表示だったと言えるだろう。

ところがハイドンの交響曲に関しては事情が異なる。
カラヤンはこのレパートリーを、コンサートの中心に据えることがほとんどなかった。年中行事のように繰り返されることもなく、代表作として語られることも少ない。にもかかわらず、1980年代になって突然、「パリ交響曲集」「ロンドン交響曲集」という二つの大きなまとまりを、全集として一気に録音している。

カラヤンの「パリ交響曲全集」

カラヤンの「ロンドン交響曲全集」

この「距離感」は偶然ではない。

晩年を迎えたカラヤンは、実演と録音を明確に切り分け始めていた。
演奏会では、祝祭性や儀式性、社会的意味を持つ作品——ベートーヴェン《第九》や《ミサ・ソレムニス》、モーツァルト《レクエイム》、ヴェルディ《レクイエム》などといった「合唱付き名曲」を繰り返し取り上げる。一方で録音では、実演では必ずしも扱わなかった作品群まで含め、体系として音楽史を整理し、確定する作業に向かっていく。

同時期に制作されたブルックナーやチャイコフスキーの交響曲全集も、この文脈で理解できる。
そこには若い頃のような情念の噴出はなく、むしろ驚くほど冷静で、均質で、禁欲的な音がある。1980年代のカラヤンは、音楽を「語る」よりも、「残す」段階に入っていた。

カラヤンのチャイコフスキー/交響曲全集

カラヤンのブルックナー/交響曲全集

ハイドンの「パリ」「ロンドン」全集は、その極端な例だろう。
これらは実演の延長として生まれた演奏ではない。最良の条件が整ったときに、一度きりで提示されるべき「完成形」として構想された音楽である。

実際に聴き始めると、その姿勢ははっきりと音に現れている。
カラヤンのモーツァルトからは想像しにくいほど、ハイドンは辛口だ。表情付けは最小限、テンポは揺れず、ユーモアは誇張されない。音楽は歌うというより、淡々と成立している。そこには「面白がらせよう」という意志すら感じられない。

だが、それこそがカラヤンのハイドン理解だったのではないだろうか。
ハイドンの交響曲は、指揮者の人生観や感情を投影する音楽ではない。むしろ、余計なものを足せば足すほど壊れてしまう、きわめて完成度の高い構造体である。だからこそカラヤンは、これを年中行事として繰り返すことをせず、最良の条件で一度だけ提示する道を選んだのかもしれない。

この試聴レポートでは、その前提を踏まえたうえで、実際の音を一曲ずつ確かめていきたい。
なぜこの演奏は、ここまで辛口なのか。
なぜそれでも、妙な説得力を失わないのか。

まずは、「パリ交響曲」の冒頭から、耳を傾けてみることにしよう。

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