最後の演奏会(その2)リパッティ

「ブザンソン告別演奏会」・リパッティ

前項のバックハウスは、コンサート最中に、「まもなく自分は死ぬのではないか?」とは考えていなかったに違いない。しかし、ディヌ・リパッティ(1917~1950)の場合は別だ。

20代にしてわずらった、「悪性リンパ腫」は次第に、そして確実に彼を蝕み、33歳の1950年頃には、すでに、末期症状に達していた。

この年の9月、彼は、フランス領、スイス国境近くのブザンソンでの国際フェスティバルのリサイタルに招かれた。

9月16日、コンサート当日、リパッティは、午前中にホールに到着し、リハーサルを行った。このときの、体調はまずまずだったという。しかしながら、午後になって、体調は悪化し、熱が出始めた。妻のマドレーヌや、医師団、この日のために駆けつけた、師であるナディア・プーランジェも、とても演奏できる状態ではない、と演奏会のキャンセルを勧めた。

しかし、彼は、演奏することが、ミューズの神へ献身の証であり、彼の演奏を聴くために集まった人々ために、ピアノを弾くことが自分の使命だと繰り返し、周囲の説得を拒んだ。多分、このときの彼の心の中には、このコンサートが自分の生涯最後のコンサートである、ということが、はっきりとわかっていたに違いない。

ついに、リパッティは、医師や妻らの説得を振り切り、注射を打ち、ゆっくりと着替え、待っていた車にそろそろと歩いていった。ホールに到着すると、楽屋までの階段を一段一段、息を切らしながら上ったという。のちに、妻のマドレーヌは、その光景を、キリストが十字架を背負って登った「ゴルゴタの坂道」にたとえた。

リパッティの「最後の演奏会」

この日のプログラムは、バッハの「パルティータ第1番」・モーツァルトのソナタ第8番・シューベルトの即興曲・そして、ショパンのワルツ(全14曲)と彼のレパートリー中でも、中核をなすものばかりである。

舞台中央によろめくように歩み寄り、ピアノの椅子に座ったリパッティは、軽く、指慣らしのアルペジオをちょっと弾いてみる。ちょっとした間のあと、すぐにバッハを弾き始めた。非常に美しい音ではあるが、元気な頃の録音と比べると、弱々しさを感じさせたが、コンサートが進むにつれ、次第に、いつもの溌剌さを取り戻してきた。

コンサートの前半には、バッハ・モーツァルト・そして、シューベルトが演奏されたが、曲の間には、ディヌは楽屋に戻らなかった。いや、戻る体力が、なかったのだ。

後半は、ショパンのワルツ集が演奏されたが、残念ながら、このときの彼には、全14曲を弾き通す力が残されていなかった。1曲を残して、楽屋に戻った彼は、すっかり憔悴しきっていたが、いまいちど、彼はステージに立ち、アンコールとして、バッハの「主よ、人の望みの喜びを」を弾いた。これが、彼の最後の演奏となった。

この演奏会を、ラジオ局は、中継放送する予定であったが、コンサートの中止を予想して、とりやめにした。しかし、幸いにも、録音は行われた。これが、EMIによりレコード化された、有名な「リパッティ・ブザンソン告別演奏会」のLPである。残念ながら、最後のバッハは録音がされなかったらしく、LPには未収録である。

悲しいかな、このLPに収められた演奏は、彼の元気な頃の演奏と比較すると、技術的な見地からは若干聴き劣りがする。しかし、演奏全体からは、以前の演奏からはあまり聴けなかった、ある種のすがすがしさが感じられる。これこそ、彼が、最後の最後にミューズの神から得ることができた、「完成された境地」なのかもしれない。

リパッティは、このコンサートから3カ月足らずの12月2日に33歳の短い生涯を終えた。臨終の間際、彼は、ベートーヴェンの弦楽四重奏を聞きながら、こう語った。

「良い演奏家になるだけでは、決して充分ではない。神様から選ばれた“楽器”にならなくてはいけないのだ!」

(ベーレンプラッテ 店主)

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