カラヤンの「ばらの騎士」を聴く(1)

ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)が残したおびただしいレコーディングの中でも、リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」の二つの録音(1956年・1983年録音)は特に輝きを放っていると考えるカラヤンフリークは私だけではないと思う。
ここでは、この二つの「ばらの騎士」のレコードについて様々な角度から考察したい。

ヘルベルト・フォン・カラヤンが1956年に録音した《ばらの騎士》は、後年の華麗で官能的な名演とは明確に異なる価値を持つ録音である。
この盤を「初期の名盤」として片付けてしまうのは容易だが、むしろここには、若き日のカラヤンでのみ到達していた指揮者としての完成度が、はっきりと刻み込まれている。

1956年当時のカラヤンは、すでにザルツブルクやウィーン、ベルリンといった主要な歌劇場で活躍し、オペラ指揮者として確固たる評価を築きつつあった時期である。一方で、1960年代以降に顕著となる、音響の官能性やオーケストラ・サウンドの磨き上げといった要素は、まだ前面には出ていない。ここで聴かれるのは、楽譜とドラマを起点に、舞台全体を論理的に構築しようとする知的なエネルギーである。

《ばらの騎士》は、ともすればウィーン的な甘美さや郷愁のオペラとして演奏されがちだが、この1956年盤では、そうした情緒に安易に寄りかかることはない。テンポは引き締まり、音楽は常に前へと進み、場面転換や会話の流れが非常に明晰だ。リヒャルト・シュトラウスの複雑なオーケストレーションは整理され、ホーフマンスタールの台詞が持つ演劇的構造が、音楽の運動として自然に立ち上がってくる。

この解釈を支えているのが、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団である。ウィーン・フィルのような粘りや香気とは異なり、透明度が高く、反応の速いアンサンブルは、カラヤンの意図を即座に音に変換する。弦楽器は軽快で、木管は性格描写が明確、金管は肥大せず、全体として非常に機能的だ。その結果、《ばらの騎士》は甘美な音絵巻ではなく、高度に組織化された音楽劇として成立している。

重要なのは、この録音が「未完成」なのではなく、すでに完成している方向性が、後年とは異なる形で示されているという点である。後のウィーン・フィルとの録音で聴かれる、豊麗で包み込むようなサウンドは、確かに魅力的だ。しかし、その美学の土台となる構造意識、歌とオーケストラの関係性、ドラマの設計力は、この1956年盤ですでに確立されている。

この《ばらの騎士》を聴くことは、若きカラヤンの可能性を探るというよりも、彼がすでにどこまで見えていたかを確認する行為に近い。後年の円熟や官能性を知るからこそ、ここにある知性と緊張感は、いっそう鮮明に感じられる。1956年盤は、カラヤンの長いキャリアの「序章」ではなく、確かな重みを持った若き日の到達点として、いまなお聴き直されるべき名盤なのである。

当店の在庫から

英コロンビア/オリジナル盤(ステレオ)

英コロンビア/オリジナル盤(モノラル)

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