究極の日常 —— マリナーのハイドン

ハイドンの交響曲を、デイヴィス、カラヤン、マルケヴィチと聴き進めたあと、ネヴィル・マリナーに辿り着くと、不思議な感覚に包まれる。
強烈な個性が前面に出るわけではない。テンポが極端に速いわけでも遅いわけでもない。音楽は滑らかに進み、どこにも過度な凹凸がない。にもかかわらず、聴き終えたとき、そこには確かな充実が残る。この感覚をどう言葉にすべきかと考えたとき、ふと浮かんだのが
「究極の日常」という言葉だった。

マリナーのハイドン/「パリ交響曲集」

ネヴィル・マリナーとアカデミー室内管弦楽団によるハイドンは、いわば事件の起こらない演奏である。
劇的な強弱の誇張もなければ、思想を前面に押し出すようなテンポの操作もない。だが、それは決して「何もしていない」のではない。むしろ逆である。音楽が自然に流れるためには、スコアの深い理解と、各声部の機能を完全に把握したうえでの精密なバランス感覚が必要だ。
少しでも理解が浅ければ、どこかに違和感が生じる。安心して聴けるということは、すべてが必然として響いているということなのだ。

マリナーのハイドンには、いわゆる“名場面”が少ない。どの楽章が特別に突出している、という印象が残りにくい。だがそれは欠点ではない。全体が均質に整えられ、建築物のように安定しているからこそ、特定の瞬間だけが浮き上がらないのである。
ハイドンの交響曲は、巨大な悲劇や英雄的闘争を描く音楽ではない。比例、対称、均衡といった秩序の美学の上に成り立っている。マリナーはその本質を理解し、決して過度に意味づけしない。音楽を語らず、音楽に語らせる。その態度こそが、イギリス的古典感覚の真骨頂だろう。

日本では長らく、「常識的」という言葉は「つまらない」と同義に扱われてきた。
強い個性や大胆な解釈が評価の軸になりやすかったからである。しかし、凹凸を作らない演奏ほど難しいものはない。崩さないためには、どこが崩れやすいかを知り尽くしていなければならない。節度を保つには、衝動を抑える強さが要る。マリナーの芸は、若さよりも成熟を求める芸風である。

聴いているあいだ、特別な高揚はないかもしれない。だが、音楽は静かに呼吸し続ける。和声は自然に移ろい、フレーズは無理なく終わる。終曲が終わっても、何かが誇張されることなく、すっと日常へ戻っていく。そのとき気づくのだ。これは決して平板ではない。むしろ、理想的な均衡が保たれた、完成度の高い古典派の姿なのだと。

究極の日常。
それは派手さの欠如ではない。音楽が本来あるべき姿で立ち上がるための、最も高度な境地なのである。

マリナーのハイドン/交響曲「哲学者」&「校長先生」

マリナーのハイドン/交響曲「熊」&「めんどり」

Related Posts

None found

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP